幸福

batta62005-04-14

おはようございます。
毎度の事ですが、忙しさにかまけて日記をさぼってしまいました。m(_ _)m
さて、駒沢先生の論文を読んで頂けましたか?
後半の仏教論なんぞは難解でしたでしょうね。
「分別知」と「無分別知」なんぞはお坊さんでも理解したり説明出来る人は少ないのではないかと思います。かく言う私も他人に理解ができるように説明できません(汗)
一般的に言う「分別」や「無分別」ではありませんね。「知」が付くと全く違う意味になるようです。
ま、難しい事はさておき、今日は「幸福」について考えてみようと思います。
人それぞれ幸福感は違いがあるだろうと思いますが、共通して言えることは、満足しているということではないでしょうか?私の幸福感は、「障り」が無い事、「充足」している事等です。それは、相対的なものではなく、固有のものです。他人と比べてどうのこうのと言うのは全く馬鹿げていると思います。障りが無い=困ることが無い世界、充足=満足する事、これって全部自分の心の問題ですよね。私は常々思っていますが、例えばお財布に¥1000円入っているとします。1000円しか入ってないと嘆くよりも、1000円も入っている喜ぶ方が良いと思っています。嘆いたり卑下しても何ら状態が変わらないのですから、ポジティブに喜ぶ方が良いと思うのです。つまり、幸福であるということも、不幸であるということも全部自分の心の問題だということですね。一生かかっても使い切れないほどのお金を持っている人が幸せなんでしょうか?新しくて大きな家に住むことが幸せなんでしょうか?答えは「否」ですよね。つまり、無くなるものに執着すると、それが無くなった時に不幸になってしまいます。人はよく、「お金は無くても健康で家族が仲良く暮らすことが幸せです」なんて言いますが、健康も家族も無くなるものですよね。人は誰でも病気はするだろうし、家族も未来永劫一緒にいられるとは限りませんよね。お金に拘る人生よりも少しはマシかもしれませんが、その根本はお金を幸せの「当て力」にしているのと何ら変わりが無いと思います。いくら愛し合った男女でも、片方が死に直面したとき一緒に死んでくれるパートナーはごくわずかでしょうね。減ったり増えたりするものに幸せの基準を持って行くと、それが無くなれば不幸になってしまいますね。
私は無くなるものに幸福の基準を持って行くのではなく、絶対に無くならないもの、誰もが幸せになるものとして「仏法」を学んでいます。私的幸せの秘訣は、「少欲知足」です。