昨日のお仕事

おはようございます。
昨日のブログを見ると、なんだこりゃ?でしょうね。
昨日はこのご一行様を小野市の黍田町へご案内しました。
黍田町の方と交流試合をしたのです。
TOPの写真は帰りに立ち寄った加西のフラワーセンターです。
どなたもカメラを持っていらっしゃらなかったので私の拙いデジカメで写真を撮りました。これが年代物でもう7〜8年も使っているでしょうか。未だに133万画素のデジカメなんて使ってるのは私くらいでしょうかね。今や携帯電話に付いてるデジカメでももっと高画質でしょうね。でもNETにUPするとなればいくら高画質でも解像度を落とさなければいけないので、結局同じだろうと思って未だに133万画素を使っています。こうやってUPしておけばいつでもDL&プリントをできますからやっぱりNETって便利ですよね。
ところで私的にも昨日は貴重なお話を聞けることができました。
それは私の一族についてです。
私の一族は山陰の勇尼子一族の関係だと言うところまでは分かっていたのですが、なぜ尼子氏の家来が加古川にいたのかが疑問だったのです。それが昨日行った黍田町のご老人(元先生)のお話を伺うと、黍田町は昔は赤松氏の飛び地だったそうです。黍田町と言えば本来は三木の別所氏の所領かと思っていたのですが、どうやら歴史を紐解いてみると赤松氏の所領で昔はサトウキビの栽培をしていたそうです。地形的に加古川に接しているので土壌は砂礫なんです。砂礫質の土壌は稲作りには不向きで野菜作りに適しているのです。土壌のお話は横に置いて、その私の一族ですけれど、おそらく私の一族も赤松家の家来で飛び地だったのでしょうね。秀吉が刀狩りをするまでは、武士と農民の区別は曖昧で、武士が平時は農業をやっていて、イザ戦となれば領主の軍勢にはせ参じていたのです。農繁期は農業をやりますが、暇な時には武術の鍛錬をして戦に備えたのです。実際我が一族の本家跡は小さな砦だったらしく、発掘すれば砦跡が出るそうです。私らが昔よく遊んだ山は『競馬山』と言って、馬を走らせるところだったらしいです。今は雑木が生え茂っていますが、山を削り取って平地にしていた跡は残っています。ここで歴史のお話に戻るのですが、赤松氏は尼子氏の家来ですね。その尼子氏は広島の毛利家に滅ぼされるのですが、秀吉が中国征伐の頃は播州まではその勢力下でした。私はなぜ秀吉が中国征伐の時に別所氏を頭とする播州武士が逆らったのかと疑問でした。『加古川評定』で秀吉軍との決戦を一人反対したのは黒田官兵衛なんですが、当時の播州武士は三河の小大名より中国地方の覇者の毛利家を選んだのでしょうね。その理由が赤松一門の飛び地の所領が有るので、易々と秀吉の進行を許さないだろうと判断したのでしょう。ところが黒田官兵衛は元を糾せば赤松一門は尼子の一統だから毛利家は見捨てると判断して、播州武士に秀吉側へ付くことを進言したのでしょうね。結果はごらんの通り、毛利からの援軍は来ずに三木の別所氏は秀吉に滅ぼされてしまったのです。
黍田町のご老人に聞いたお話で悠久の歴史を想像すると、とっても楽しいです。
さて今日も元気にお仕事です。
今日のお仕事は乗務より待機の時間が長い仕事です。
どうやって暇つぶしをしようかな・・・・・・。