さよならボン。

このブログは大親友であり私の善知識の谷川秀大氏への鎮魂歌です。
彼は3月11日、岩手県大船渡市の個人宅で法話の会を開催していました。
その宅の主人は、齢92歳の老婆だったとのことです。
そのお宅の50m先まで津波が来たらしい。
そのお家は全く津波に飲み込まれたのです。
その家の主人と共に行方不明、未だに生死不明。
今の時期にレクエイムなど不謹慎だと叱られるかもしれないけど、津波に飲み込まれた所にいて、連絡が取れないと言うことは、客観的に考えても絶望的と考えざるを得ません。
彼の性格からして、92歳の老婆を見捨てて自分だけ生き延びようとしません。自分の命の危機が迫ろうとも、御同行を助けます。それは仏法者としての特質ではなく、彼の持って生まれた性格なんです。
このブログはいつ完成するか分かりません。彼について語れば、どれだけ語っても語り尽くせないからです。
でも、幼稚園から一緒に育ってきたものとして、彼の家族も知ってないことも
語ろうと思います。


彼について書こうとすると、一緒に育った幼少期、少年期、青年期、そして、暮らすところは離れても、私のメールにいつも親切丁寧に答えてくれたこと。
結婚するんだと言って、新妻を紹介してくれたこと。父の谷川秀城氏の葬式の時のこと。走馬燈のように浮かんでは消え、消えては浮かんできます。
決して涙は流すまいと思うのですが、彼は極楽へ往生したのには違いないのですが、ひょっとしたら喜ばしいことかもしれないのに、なぜか涙があふれてきます。だから少しずつしか書けません。
でも、彼の妻や子供たちが知らない彼を、教えてあげることができるのは私しかいないのです。
本当にすばらしい友を無くしました。
彼との約束では、私のお葬式の導師は彼がつとめて、私の法名は彼がつける約束になっていたのです。
さして生きていても世の中のためにならない私、病気まみれでいつ死んでもおかしくない私が生きて、沢山の人に幸福と安寧をもたらしてきた、これからも人のためになる人生を送るボンが亡くなるなんて、神か仏か知らないけれど、ひどいことをするものです。
仏法では、善因善果、悪因悪果、自因自果と因縁果の法則を説きます。
彼が津波に流されたという結果は、彼が彼の意志で大船渡に行ったからだと理屈では理解できます。でも悲しみがこみ上げて止みません。

ボンの本当の名前は、谷川秀大(たにがわしゅうだい)と言います。加古川市西神吉町辻の浄土真宗本願寺派の正念寺の次男として生まれました。訳有って次男では有るけれど、正念寺の跡取り、つまり、次の住職として成長しました。中学時代の成績は中の上くらいでしたが、地域で一番の進学校である加古川東高校を受験するも失敗し、一年間姫路の予備校のYMCAに通い、次の年にもう一度加古川東高校を受験し、見事に合格したのでした。 大学は龍谷大学に現役合格したのでした。
高校時代は地域の辻ジュニアリーダーに所属して、地域の子供達に、親しみを込めて『ボン』と呼ばれました。中学時代のバレーボール部の経験を生かして、小学生女子のバレーボールのコーチも務め、優秀な成績を納めたのでした。
私たち辻ジュニアリーダーの活動の目的は、地域の子供たちに、『基本的な生活習慣』を身につけらせる、簡単に言えば、親が手の届かないところを高校生のお兄ちゃんやお姉ちゃんが小学校中学校の子供たちの面倒を見ることでした。その手段は、年中行事を通じて、とんどやき、春の遠足、夏のキャンプ、古より伝わる行事や、自分たちで考えた行事を通じて、子供たちと接して子供たちを導いて行く。公民館の勉強、週に2〜3日小学生と中学生が勉強をしていたのですが、その勉強に先生の助手として参加しました。
私たちの小さな頃はボンのお寺の本堂で勉強しました。ですから、私たちの年代は小さな頃からお寺に出入りしていたので、南無阿弥陀仏は自然と私らの中に入っていました。
そういえば思い出しましたが、ボンは便所へ二回はまりました。正確に言うと、一回はズッポリで一回は半分はまりかけです。そのことを成人してから言うと、すごくいやがっていました。これは彼の弱みだったのかもしれません。(笑)
私たち辻地区の同級生は12人だったと思います。みんな仲良しで、私とボンともう一人玉川弘治君の三人がよく遊んでいました。玉川弘治君は現在三菱重工の相模原工場へ勤めているはず、もちろん向こうで住んでいるはずです。若い頃に行ってしまって、ただいま音信不通なのですが、確か、ボンのお姉さんが相模原なので、一度連絡を取ってもらえればと考えるしだいです。
それにしても、青春時代を一緒に過ごしたわけですが、彼は恋愛とは縁が無かったように思います。誰か好きな女の子がいたのかもしれませんが、おくびにも出しませんでした。彼の恋愛相談なんて聞いたことが有りません。
それだけに、ブラジルから可愛い嫁さんを連れて帰ってきたときは驚きました。
さて、ジュニアリーダーは高校三年で終了するわけですが、ジュリアリーダーの上級生、具体的には、亡玉川正志さん、上田慶次さん(大阪で建設会社の社長をしているようです)ボンと私、この4人が揃えば麻雀です。毎週末はもちろんのこと、夏休み冬休みなどは毎晩徹夜したものでした。学生ばかりの麻雀ですから、お金はかけません。純粋にゲームとしてだけ楽しんでいました。この4人は辻でもハイソな部類の人間ですから、その麻雀も論理的な麻雀でした。一番強かったのはおそらく上田慶次さん、後の3人は同じくらいかな。でも、癖が違うのです。私は流れに沿って大物ねらいするときも有れば、小さな手で蹴る事もあり、自在に打つ方でした。ボンはと言えば、これが大物ねらいをよくするのです。中々上がれないけれど、上がればどひゃ〜ってなので上がるのです。
それと、加古川の駅前のパチンコにもよく行きました。上田慶次さんが大阪工大、私が大阪学院だったので、加古川の駅前の喫茶店で待ち合わせて一緒に行きました。思い出せないけれど、なぜかボンも一緒でした。そのころのパチンコと言えば、今みたいに自動でなくて、玉は勝手に入って行くのですが、一個ずつ指で玉をはじくタイプでした。終了しても3千円もないくらいでした。それを店をはしごして、一日に2〜3台終了させていました。慶ちゃんとボンと私が行けばお店の人に嫌われまくりです。今みたいにコンピューターがパチンコ台に入っているわけでも無いので、釘を読めば必ず勝てるのです。おそらくパチプロと思われていたでしょうね。そのパチンコでも性格が出るのです。ボンはネチコチネチコチ根よく攻めるのです。あの根の良さは布教活動にあいても発揮されたのでしょうね。それは麻雀とパチンコによって培われたのかもしれません。(笑)
大学の2回生か3回生の頃だったと思います。夏休みだったか冬休みだったか忘れたのですが、私に相談が有ると電話をしてきたので、家に来るように言うと、外で会いたいとのこと。それも近所の喫茶店ならまずいので、遠くの稲美町の喫茶店へ行きました。おもむろに切り出した話は親鸞会の入会の話でした。
小さな頃から彼は寺の跡取りとしての道を歩んできたし、私は正念寺の檀家ですから、そのままボンが住職になると私が檀家総代です。檀家総代は選挙ではなくて住職の指名なんです。ボンが指名するのは私を始めとしてジュニアリーダーの仲間を役員として指名したはずです。将来の檀家総代としては、将来の住職の相談となれば親身になって聞かないといけません。そのときボンは、親鸞会に入りたいねんけれど、親鸞会に入ったら寺を継げなくなるねん。どうしたもんやろとのこと。私はあくまでボンの檀家総代ですから、そのボンがどこへ行こうがどこへ入ろうが、無条件に支持して支えるだけ。私は、自分が正しいと思う事したらええ。寺の跡継ぎやからと言って辛抱せんでもええ。親鸞会に入って本願寺が除名するのなら、正念寺の檀家みんなでボンに続くだけや。なんて威勢のいいこといって背中を押しました。
今になって思うと、それで良かったと思います。正念寺の住職をして300軒足らずの檀家で頑張るより、8月7日に見るように、多くの人に慕われた彼が正解だったのでしょう。