善知識からのメール

おはようございます。
今日は私の善知識(先生)から頂いた言葉を紹介します。

送ってくれたのは前に紹介した竹馬の友の善知識です。
年末に送ったメールに対しての返信でした。

その中に「独生 独死 独去 独来 (どくしょう どくし どっこ どくらい)」
と言う言葉が有り、ここ数日この言葉に思いを巡らせておりました。

この言葉は浄土真宗の根本のお経の、『大無量寿経』の中の一言です。
「人間は、生まれてくるのも独り(ひとり)、死ぬのも独り」と言う意味です。

みんな仲良く・共生(共に生きる)・人は一人では生きてはいけない・いのちはつながっている・いのちを大切に、等々そんなメッセージをよく耳にします。たしかにそうなんだけど、それだけじゃ何かが足りないような気がしていました。

誰とでも仲良くなんかできない。俺は自分の力で生きてきた。こんないのちなんて…。
そういう想いを抱く人もいることでしょう。

他者を軽く見て、自分勝手な“自由”を主張して 個を誇る。そんな世の中だから、先のようなメッセージが咲き乱れる。けれどもすぐに色褪せ、枯れてしまう。
ことばが色褪せ、枯れてしまうのは、こころが色褪せ、枯れているから。

みんなで生きている、ひとりで生きていないのは事実だけど、「みんなで」ということに目が向きすぎている。
「ひとり」が語られるのは、私個人を正当化する場合のみ。個の尊重をいいことに、わがまま放題。

「独生 独死 独去 独来」ということばで言い表されている「独り」って、個々のことでもあり、みんなのことでもあると思います。
独りのことでありながら、みんなのこと。矛盾しているようで、矛盾していない。

天上天下唯我独尊」ということばもあります。
「天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し」とお釈迦さまは言いました。
傲慢に聞こえますか? 
お釈迦さまが、私のみ尊いと言ったのではありません。
「生きとし生けるものみんなが、誰とも代わることのできない、ただひとつの尊いいのちを生きている」ということです。
この ことばも、独りのことでありながら、みんなのことです。

このような「独り」の意識こそが、共に生きるということを意識させ、他を求めるこころを生じさせるのだと思います。

独りで生まれ、独りで死んで行くからこそ、その途中経過の人生はみんなで生きていく。
みんなで生きて行くには、我が儘放題では生きていけない。

今年はキーワードは、『聴く』にします。それは、『聞く』でもあり、『効く』でも、『利く』でもあります。