他力本願

おはようございます。

今朝は鍋平さんのRES中に『他力本願』と言う言葉が使われていたので、これに付いて少し述べたいと思います。

国語辞書でこの言葉を引くと、
(1)〔仏〕 弥陀の本願の力に頼って成仏すること。
(2)他人の力に頼って事をなすこと。他人まかせにすること。
「―では成功は望めない」
と有ります。

おそらく鍋平さんは(2)の意味でこの言葉を使われたのだろうと思います。
親鸞ファンの私にとっては(2)の意味で使われる事が違和感を感じ得ないのです。
本来の『他力本願』の意味を詳しく述べますと、(本願寺HPから引用)

「他力本願(たりきほんがん)」という言葉は、浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(しんらんしょうにん)がいわれた「他力(たりき)」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、もちろん他人の力をあてにすることでもありません。また、世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、他の力という意味でもありません。「他力(たりき)」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺(こうだいむへん)な阿弥陀如来(あみだにょらい)の力を表す言葉です。

「本願(ほんがん)」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。阿弥陀如来(あみだにょらい)の根本の願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)を信じさせ、称えさせて、浄土(じょうど)に往生(おうじょう)せしめよう」と誓われた願いのことです。この本願(ほんがん)のとおりに私たちを浄土(じょうど)に往生(おうじょう)させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力(ほんがんりき)」といい、「他力(たりき)」といいます。

このような如来(にょらい)の本願(ほんがん)のはたらきによる救いを、「他力本願(たりきほんがん)」という言葉で聞き喜んできたのです。ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、いまのいのちの尊さと意義が明らかに知らされるのであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。

しかし、今日では「他力本願」というと、他人を当てにして自己喪失や思考停止のように弱々しいイメージで使われています。 これらは本来の意味を無視した正反対の用法なのです。
平成14年(2002年)5月16日付の全国紙に、オリンパス光学工業の全面広告が掲載されました。 その中のキャッチコピーに他力本願から抜け出そうというフレーズがありました。 浄土真宗各派が厳重に抗議し、その結果オリンパス社は広告を撤回し、謝罪しました。

昭和43年、倉石忠雄農相が現行憲法は他力本願と発言し、抗議を受けて最終的に辞任することになりました。 ほかにも、鈴木元首相や、石原慎太郎知事も「他力本願」という言葉を誤用し抗議を受けています。

作家の五木寛之氏は著書『他力』の中で、 他力とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が自分の生き方を支えているという考え方なのです。 とか、 他力とは目に見えない大きな宇宙の力と言ってもよく、大きなエネルギーが見えない風のように流れていると感じるのです。 のように書いています。しかし、これでは他人の力も天候も「他力」になってしまいますので大変な誤解です。 仏教では「他力」以外の力はすべて「自力」ですので、宇宙の力も他人の力も「他力」と言ってはいけないのです。