どうでもよいことなんだけど・・・・・。

お早うございます。
連休をみなさんは如何お過ごしでしょうか?私は昨夜も仕事に出たのですが、全く仕事にはなりませんでした。それでも私の仕事はコツコツ毎日の積み重ねですので、今日もまた出るつもりです。
さて、そのどうでも良いことなんですけれど、くだらないことに気が付いてしまうのです。そのくだらないことですが、いいちこのCM流れていますよね。侍が広間で座ってるCMですね。侍の傍らには刀が右側に置いてありますよね。あれが不自然でたまらないのです。右利きならば刀は自分の左に置かなければいざというときの間に合いません。右利きならば左手で鞘を持って右手で柄を握って抜刀しないと刀は抜けません。もちろん左利きならば自分の身体の右側で良いのですが、日本の刃物ってみんな右利き用だから、生まれつき左利きの人でも右利きに昔は修正していました。だから概ねみんなあ刃物は右利きで使うものだから、身体の右側に刀を置くのは不自然なんです。何十年か前に一度だけ武家の便所を見たことがあるのですが、その便所は3畳ほどもあって、今で言う便器の位置が部屋の中心より右に有るのです。なぜだろうって質問をしたら、排便中におそわれた時に左側が広くなければ刀が抜きにくいからだそうです。
ところで現存する刀剣って実は殺人用ではないのです。一つは芸術作品、もう1つの意味は武士の象徴らしいですね。現存する刀は江戸時代の争いの少ない時代の物だから、あまり実用的ではないのです。江戸時代以前の刀は、江戸時代の刀の3倍〜5倍くらい重くて、それで合戦をしたそうです。そんな刀のことを『兜割』と言ったそうです。そうですね、読んで字の如く人を斬り殺すのではなくて、叩き殺すための大きな重い刀だったみたいですね。私は亡父が晩年は古物商をやっていましたので、一度だけその兜割の刀を手に取った事があります。当時は高校生だったのですけれど、それもアスリートでしたから普通の高校生よりは筋肉が付いていたと思います。それでもその刀を振り回すことは困難で、こんな重い刀を昔はよく振り回していたものだと感心したものでした。今でもそうですが、概ね道具を使うスポーツの道具、野球のバットやテニスのラケット、ゴルフクラブなどは1Kg前後だろうと思うのですが、通常の人間が自由に扱える重さはそれくらいが限界なんでしょうね。ところが『兜割』はその3〜5倍も重いのです。それが江戸時代に入って刀は飾りになってしまって軽くなって美術性が重んじられるようになったようです。しかしながら子連れ狼の拝一刀の胴狸はこの『兜割』だった模様です。元の彼の仕事は公儀介錯人、切腹する人のクビをはねるのが仕事ですよね。だからヘチョイ刀では首が落ちなかったのでしょう。それで『兜割』だったのでしょうね。それに柳生一派は普通のヘチョイ刀で挑んでいったものだから、一度刀を合わせればヘチョイ刀なんてへし折ってしまいます。そこいらが拝一刀の強さだったのかもしれません。
その人切りの道具を常に持った武士の行動規範は武士道ですね。人殺しの道具をいつも携帯しているのに、それを持った人が好き勝手に自分の欲求だけで行動すれば、それはもう地獄です。その人殺しを制御するための思想が武士道、つまり『五常の徳』です。今一度どんなものか書いてみますね。
五常の徳
儒教では「仁」「義」「礼」「智」「信」を五常といって人間の守るべき徳目として大切にします。
人間には、お互いに優しく人のために尽くそうとする良い心「仁」があります。
また、人間の行いには善と悪とがありますが、良いことは良いとして褒め、悪いことは良くなるように改めさせる心「義」があります。
そして、人間の社会は助け合って、生きていく共同社会ですから、お互いに敬意を持って尊重しあう心「礼」が必要です。
更に、人間は文字と言葉を元にした文化を持って、物事の良し悪しを判断する心「智」があり、嘘・偽りを言わない心「信」を大切にしなければなりません。
これ等5つの心は人間にとって常に心すべきことであり、儒教では「五常の徳」として大切にしております。

どうでしょう?今こそこの『五常の徳』が必要とされていると思いませんか?